心理学総合案内「こころの散歩道」/いやしの道/なぜではなく何のために

「なぜ」ではなく「何のために」

 私たちは、何か問題が起こったときに、「なぜそれが起ったのか」と考えてしまいます。

 大きな事故にあったり、家族が大病にかかったときなど、なぜ私たちの家族がこんな目に合わなくてはいけないのかと考えてしまうこともよくあるでしょう。

 生まれつき障害のある子を持ったお母さんは、あれが悪かったのか、これが悪かったのかと、つい考えてしまうと言っていました。

 でも、「なぜ」を考えても、何か良いことがあるでしょうか。医学や物理学では意味があるかもしれません。原因を考え、原因を取り除き、問題が解決することもあるでしょう。けれども、人の心や人生はどうでしょうか。

 悪い出来事が起きたときに、「なぜ」を考えると、たいてい悪いことしか思いつきません。ますます暗くなってしまうこともたびたびです。

(心理学のレポートを書くときには、心の問題の原因を探ることはとても意味があるでしょうが。)

家族や人間関係の中で:犯人探しを止めるとき

 どうしてこの子が暴力を振るうのか、学校へ行けないのか。親の育て方が悪かったのか。もしかしたら、それも原因の一部かもしれません。でも、タイムマシンで昔に戻ってやり直すことはできません。

 「なぜ」を考え、原因を探ると、「犯人探し」が始まってしまいます。

「家族がめちゃくちゃになったのは、乱暴するこの子が悪いのだ。」

「この子が乱暴になったのは、母親の育て方が悪かったのだ」

「夫が悪い」「姑が悪い」「学校が悪い」「社会が悪い」などなど。

 でも、「犯人」を探し、その人だけをみんなで責め立てても、問題は解決しないのです。

「この問題は、私たちみんなの問題だ」

と考え、みんなで協力し始めたとき、問題は解決へ向かうような気がします。

 心理療法の一つに、家族みんなが集まって行う「家族療法」があります。ある心理療法かが言っていました。
「お父さんが会社を休みお兄さんが学校を休んで、家族みんなが協力して家族療法を受けようと思ったときには、実は問題はもう解決への1歩を踏み出している。」

 心理学的に考えても、私たちの心や行動の問題と原因は複雑にからみあい、単純に何か一つの原因を決めることはできません。

 児童相談所や児童自立支援施設(教護院)の先生が言っていました。「学校にはいろいろ文句を言いたいこともあるけれども、学校も傷ついていることが多い。学校や教師を責めるのではなく、良い協力関係ができたときは、問題も解決しやすい。」

人生の中で:原因探しを止めるとき

 私たちの人生の問題も、「なぜ」を考えても解決しないことが多いように思います。

 聖書に登場する「ヨブ」という人は、幸せの絶頂から不幸のどん底へと突き落とされます。彼も、彼の友人も、「なぜ」そうなったのかを考えます。しかし、その結果は、彼を責め立てるか、それとも原因など良くわかるはずもなく、ただ悩み、迷います。

 ヨブは、神に原因を聞きます。神は、質問には具体的に答えず、ただ神が作った大自然をゆったりと見せていきます。するとヨブは原因探しを止め、そして、神への信頼と平安な心を取り戻していくのです。

(後にヨブは、精神的にも物質的にも、これまで以上に幸せになります。)

 不幸が襲ってきたとき、だれでも原因を考え、落ち込んだり、恨んだりします。でも、意味のない原因探しをやめて、その出来事を受け入れることができたとき、光が見えてくるのではないでしょうか。

何のために

 障害児が生まれたご家庭では、大きなショックを受け、時には家族がいがみ合い、ばらばらになることもあります。しかし、その危機を乗り越えたご家族の多くは、異口同音に「この子は私たちの宝だ」と語ります。

 この子のおかげで、自分は人生を学んだ。温かい家族になれた。この子がいなければ、今の自分たちはなかったと。

 そう、まるで何かの目的をもって、その子が自分たちにプレゼントされたような気持ちです。

(もちろん、不安や心配が何もなくなったわけではありませんし、困難が消えたわけではありません。でも、子供のため、家族のために、より良い方法を考え、実践していけるようにるのです。)

 原因探しや犯人探しを止めて、現実を受け入れたとき、心は平安になります。そして、さらにその困難に意味を見いだしたとき、私たちの心は、もっと前へ、前へと、進んでいくでしょう。

 不登校に関する本の中に、こんなことが書いてありました。

どうせ不登校になったのなら、不登校になったかいがある不登校をしよう。

 様々な困難はできれば起らないほうが良いのでしょうが、でも、その困難のおかげで、真の問題が見え、その人が成長したり、家族がいやされていくこともあるのです。

 クリスチャンでもある作家の三浦綾子さんは、病気の展覧会のように多くの病気にかかっていますが、以前NHKの番組で、

「自分は神様にえこひいきされているのではないかと感じる」
と語っていました。

 それは、病気をするたびに、新しい発見と成長があったからです。

私はなぜこんな困難に出会うのかと考えるのではなく、

何のためにこの困難はやって来たのかと考えられるとき、

その困難は、私たちの心を押しつぶすことができなくなるのです。

補足

・原因を追及し、問題を解決する努力を否定しているわけではありません。私たちは、困難と戦い、打ち勝っていくのです。

 ただ、場合によっては、「原因探し」が心の健康にとってマイナスになることもあります。また、「原因探し」を止めた方が、問題解決が進む場合もあると思うのです。

 原因探しを止めて困難を「受け入れる」ことと「戦う」ことは、決して矛盾しないと思っています。

・回復見込みのない病名や、重い障害が残ることを宣告された人の、一般的な心のプロセス:

1.否認(認めない、信じない) 2.「どうしてこの私が」という(原因探しの)怒り 3.取り引き(「もう悪いことはしませんから〜」など) 5.受容(平安)

・愛する人と別れたときの心のプロセス:

1.否定 2.拒絶 3.パニック 4.悲嘆 5.理由探し 6.責任の転嫁 7.意識や行動の変化 8.回復 9.転機 10.平常心

(大きな困難に出会ったとき、だれでも、取り乱したり、落ち込んだりするのは当然です。その人や、また自分自身を責めてはいけません。時には、そういうプロセスが、後日訪れる平安や平常心のもとになることもあるのです。)

* * * * 

 このページの内容は、臨床心理学や社会心理学の研究成果に基づいて書かれています。ずっと暖めてきた内容でした。

 でも、ページ執筆の直接のきっかけは、知り合いからのメールでした。闘病生活中のクリスチャンの方です。この場を借りて、お礼申し上げると同時に、一日も早い回復をお祈りいたします。

メールの言葉を引用します。

「発病したときは、思わず「なぜ?」を問おうとしましたが、今は、むしろ「何のために?」の方が大切だと思っています。」

* * * * 

今、苦しみの中で、戦っているあるあなたへ、

苦しみを乗り越えたあなたへ、

あなたの勇気と、あなたの素晴らしい人生に、

拍手、拍手、拍手。

***

碓井真史のツイッター 碓井真史のフェイスブック

 →次のページ 「思うように」ではなく「願うように」 へ進む

前のページ うつ病の人との接し方 へ戻る

臨床心理学入門「癒しの道」へ戻る

心理学総合案内「こころの散歩道」へ戻る

精神科にいくほどではない場合には
ハツラツと過ごしたい(サントリー健康食品)
★ 和漢箋「ストレスで蓄積した精神疲労による憂うつや不安感を改善する」(ロート製薬)

心理学入門社会心理学(対人心理学)心の癒し(いやし)・臨床心理学やる気の心理学マインドコントロール| ニュースの心理学的解説自殺と自殺予防の心理学犯罪心理学少年犯罪の心理学(非行の心理)宗教と科学(心理学) プロフィール講演心療内科心理学リンク今日の心理学(エッセイ) | 心理学掲示板

心理学総合案内こころの散歩道カウンター