Gさんとのメールのやりとりを
私からの返信を公開する形でご紹介します。
> なにやら心理学のページをみてたらココにきてたんで、色々書かせていただきま
> すが、もしこのページと関係ないような内容なら無視して下さい。
メールありがとうございます。
関係ないことないですよ。
無視なんかしませんよ。
ただ、今はちょっと時間がないので、
また改めてご返事します。すいません。
回答にはならないでしょうが、
「こころの散歩道」に
「エマオの道」を新しく作りました。
よかったらお読み下さい。
それでは、また。
> 言いたいことは色々あるんですが・・・まずは「正義」と「悪」について。
> なにが正義でなにが悪か、きまってませんよね。「バナナ」といえば指すモノは
> きまっている。「犯罪」といえば指すモノは決まっている。だが「正義」とは?
> 「悪」とは?いったいなにを指すのですか?法を破ることは「悪」ではない。そ
> してときには殺人も「悪」ではない。ただ個人がそれを「悪と思うかどうか」で
> 決まっているような気がします。
>だが「悪と思う」にしても、「悪」の定義がな
> いのに、いったいなにを「思っているのか」。さっぱりわかりません。私にとっ
> て、会話に「悪」という言葉が出てくるとき、そこだけピー!が入ったように、
> さっぱりなにをいってるのかわからんのです。
> ただ「暗黙の了解」みたいに、大きな流れで「人助けは正義」、「人を苦しめる
> ことは悪」になってしまってるような気がしますが、そんなもん私にいわせれば
> ちゃんちゃらおかしい。
完全に客観的な意味での善悪はないと、私も思います。
しかし、人間は何かを信じています。
私たちにとって、やはり何かの基準は必要だと思います。
法律などの以前に善悪の基準があり、それを「自然法」と名付ける、
という考えもあります。私はそれを信じます。
> なぜなら人は常に「自分一人の利益」のために動いているからだ。
> 人を助けるのも、優しくするのも、そうしたいからだ。そうしないと気分が悪い
> からだ。そうしないといてもたってもいられないからだ。
> 「愛」とかいうものも、愛する人が幸せなら、自分もそれを幸せと感じるから
> だ。
> 「自殺」も生きているより、死んだほうが楽、つまり「自分の利益」になると考
> えたからだ。
> 「自己犠牲」も、だれかを犠牲にして自分だけ楽をするのはなにか気分が悪いか
> らだ。
> 子供のために親が死んでも、子供を失ってまで自分だけ生きるより、死んだほう
> が「自分の利益」だからだ。
心理学者の中にも、そのように考える人もいます。
その考えは、十分に説得力のあるものです。
一方、人間にも動物にも、自分の利益を求めない愛他行動があると主張する
研究者もいます。私はその考えを支持します。
>
> 人間は、「すべて自分一人のために生きる」ということをしているのに、そこに
> 正義と悪という違いがあるのか?
> 「むかついたから人を殴る」も、「かわいそうだからなぐさめる」も、自分の気
> 持ちをおさめるためだ。そこに正義も悪もない。
>
> たとえば神戸の小学生殺人事件。彼は「殺したいから殺した」。ただそれだけ
> だ。「はらへったから、くった」となんら変わりない。蚊が腕にとまれば血を吸
> われるのはいやなので、「殺そう」と思い、「殺す」。
> やりたいことを我慢するのはいやなことである。実に気分が悪いことである。
> 彼はその「いやな気分」を回避するため、「殺した」のだ。
> 蚊に血を吸われるという「いやなこと」を回避するため「殺す」ように。
やりたいことを我慢している状態を、
欲求不満、フラストレーションといいます。
これが続きすぎると、心の病気になります。
しかし、人間には適度な緊張やフラストレーションも必要なのです。
ただ、一日中ボーとしているよりも、その方が楽しいでしょ。
何かを得ることは楽しいことですが、何かを得るために、
計画を立てたり、準備をするのも、とても楽しいと思います。
神戸の少年は、正義か悪かはともかくとして、
そんなことをしなければ、もっと幸せな人生を送れたのにと、
私は感じます。
>
> まさか「人と他の生き物は別だ」なんて脳味噌が耳から溶け出そうなアホなこと
> は言いませんよね。人間はただ他の生き物より賢いというだけだ。しかも人間の
> 物差しで見て。蚊やアリや動物たちは、あれで十分立派に生きている。彼らから
> みれば人間は無駄が多くてマヌケな生き物であろう。
人間と動物は基本的に同じだと考える心理学者もいますし、
そうではないとする心理学者もいます。私は後者です。
しかし、もちろん同じ側面もありますし、
人間だけが利口だとも思いません。
> 私も昔は「人殺しは悪」だとか思っていた。だがそれは親から、先生から、社会
> から、「そういわれていたから」である。よく考えたら「悪」の定義がない。な
> のになぜ「悪」なのか。なぜ「人殺しは悪いこと」なのか。
> むかし人々が殺し合って、強いものが生きていた時代のどこがいけないのか。
> 「法」とは弱いものが自分の身を守るために作り出したものではないのか。そん
> なものが正義なのか。
考えることは、とても大切です。私も考えることは好きです。
でも、その一方、定義がなくても、理論が良くわからなくても、
私たちは生きていけるものです。
> 私が人を殺さないのは「殺したら捕まる」からであり、「後味が悪い」からでも
> あり、「人一人の一生を台無しにしたと思い、苦しむ」からである。しかしこれ
> らはすべて自分にとって都合の悪いことである。だから殺さないのだ。
>もし強い憎しみがあり、憎しみをはらすことが後からの苦しみを差し引いてもプラスとな
> るならば、まよいなく殺すであろう。まあ実際人殺すときこんなコト考えてるヒ
> マはないでしょうが。要は「殺すこと」、「殺さないこと」、自分の利益になる
> ほうを人は選んでいるだけだ、ということです。
人が自分の利益や幸せを求めることは、とても良いことです。
自分をわざと傷つけたり、ダメにすることと比べれば、ずっと健康的です。
私もそれを求めます。あなたもそれを求めます。
ほかの人たちもそれを求めます。
だから、できるだけ人の利益追求も邪魔しないようにしたいものです。
ぐれたり、やけになっている人たちは、
自分の好きなことをしているというでしょうが、
本当はそうではありません。
本当に望んでいることをしているのではなく、
傷ついた心のために、ますます自分で自分を傷つけているのです。
>
> 心理学者の人は「人間は特別」だと思っているんでしょうか。
> 泣いたり、笑ったり、愛したり。それは食ったり、寝たり、交尾したり。となん
> らかわらないと思います。人間はそういうふうにできているのだ。
>
私も人間はそういうふうにできていると思います。そして、それでも
人間の自由意志と人間の価値を信じています。
> あなたは人が生きること、殺し合ったりしないことを望んでいるのでしょう。
はい、そうです。私はそう思います。
> そういう人たちにとって「自然法」ができることはよいことかもしれない。
> だが私にとって人が死のうと殺し合おうと、なにも問題ないことなのです。
> たとえ人類が全滅しようと、生き物すべてが地球からなくなっても、かまわない
> のです。
というふうに、Gさんは思っていらっしゃるのですね。
> 価値観が全然ちがうのです。なぜあなた達のほうの人間のほうが「正義」あつか
> いされてしまうのでしょう。
> 私の思うような世界になり、私と同じような考えの人間だけになったとき、なん
> の問題があるというのでしょう。あなたたちの「側」の人間は「人が殺し合うな
> んて」というでしょう。
> だからなんなのだ?「人が殺し合うことがいけないこと」というのはそっち側の
> 考えであって、我々に問題はない。人の数はかなり減るでしょう。だから?少な
> くちゃいけないのか?
> つまりですね、もし私のいうような世界になり、あなたのような人が少数派にな
> ったとき、あなたの意見は「なにいってんだ、こいつ」ということになるでしょ
> う。
> それと同じです。少数派ですから、私の意見が認められないのもしょうがない。
> だがなぜ「悪いこと」なのだ?「人殺しを許さない」人間が集まっている。それ
> は個人の価値観だからしょうがない。だがなぜその価値観に合わない私は「悪」
> あつかいされるのか。
おっしゃるとおりです。50年前の日本では、アメリカ人やイギリス人は、
鬼畜生だから、みんな殺してしまえと教えられました。
その時は、たくさん敵兵を殺すのが「正義」で、それに反対する人が「悪」でした。
常識的に考えても、心理学の実験結果から考えても、
人はみな自分の考え方が標準的な正しい考え方だと思ってしまいます。
だから、考え方の内容はどうであれ、多数派の意見の方が強いですから、
そちらの考えが「正義」になるのでしょう。もちろん、時代や文化によって、
何が多数派で、何が正義かは変わるわけです。
人間がいない方が、地球にとってはよいと考える人もいるでしょう。
> この「自分の利益を求めない」とは、たとえばどういうことですか?
> もし私がいまこの場で指を切り落とそうとも、それすら「自分の利益のため」な
> のですよ。
> 生物は、精神的にすらまったく利益のない行動をとれるのですか?
動物の愛他行動とは、少なくとも結果的には、
自分の生命を犠牲にしてでも、他の生物のために行う行動です。
いろいろな場面で、観察されています。
動物の場合、これは本能的な自動的行動といえるでしょう。
純粋な研究としては、そこに何の価値の挟みません。
これらの研究から、生物にはそのような行動があることを示すだけです。
人間もふくめて、生物が快を求めるのは大原則です。
おっしゃるとおり、
自己犠牲的な行動も、それはその人にとって価値ある行動なのです。
人間は、本能的自動的行動とは違って、そうすることも、しないことも、
選ぶことができます。
そして、すくなくとも主観的には、自分の快楽のためではなく、
他者のためにと考えて、行動することもあるわけです。
それが、生物学的には自分の快感覚を求めての行動だとしても、
それを、わたしたちは、自己犠牲とか、正義とか、名付けているのです。
今こうして、メールのやりとりをしているのも、
生理学者が脳のホルモンや電気信号で説明したとしても、
それとは別に、
私たちは、それをディスカッションとか、自己主張とか、友情とか、
名付けるのと同じです。
これは自然科学の問題ではなく、まさに価値観の問題です。
> > 神戸の少年は、正義か悪かはともかくとして、
> > そんなことをしなければ、もっと幸せな人生を送れたのにと、
> > 私は感じます。
>
> あなたはどうかわかりませんが、「生きていること事態が幸せ」とか、「だから
> 自殺はいけない」というヤツが大嫌いです。
> 「生きていることが幸せ」なんじゃそりゃ。生まれたときから奴隷で死ぬまで苦
> しみ続けて「幸せ」か?
なにが幸せかは難しいですよね。
上に書いてあるように「私は感じます。」なのです。
でも、私は、そのように考えない人のことも「大嫌い」ではありませんよ。
こうしてメールの交換をしているのですから。
(Gさんも、このディスカッションを楽しんでいますか。)
> 「自殺はいけない」っていうのはどういうことだ。
> 「彼は最悪の選択をした」。なぜだ。
> 「最悪の選択」は自殺をせず、いじめられつづけ、苦しみぬいて、結局なんもい
> いことなく死ぬことであろう。「生きていればいいことがある」。なんて無責任
> な言葉だ。どこにその保証がある。そんなこといって自殺を思いとどまらせて、
> 結局苦しみ続けて死んだとき、それでも「生きていてよかった」のか?ふざける
> な!といいたい。
>
> 「自殺」はとても賢いことだ。たしかにいきていればいいことがあるかもしれな
> い。
> だが、もし死ななければ間違いなく明日、「苦しみ」がまっているのだ。
> 「いいこと」は確率未知数だが、「苦しみ」はほぼ100%でくる。
> ならば死んでしまえば「いいこと」も「苦しみ」もない。これでいいではない
> か。あえて危険なギャンブルをすることはない。
>
> 「生きることが幸せ」というのも一部の価値観だ。
> 五体満足でメシ食えて寝るとこあっても、それが苦痛でたまらない。食うこと、
> 寝ること、呼吸すること、話すこと、見ること、聞くこと。それすべてが苦痛で
> しかない人間もいるのです。ただひたすら「死にたい」と願っているものが。な
> にをやろうと苦痛にしか感じないものが。
Gさんがおっしゃっていることは、一般的な考えから見ても、
それほど突飛な考え方ではないと思います。
尊厳死とか、安楽死の話題のときには、
そういう意見が、決してごく一部の少数派の意見ではなくて、
出てくるのですから。
>
> たとえ人間だけが特別でも、人間だけが賢くても、だからなんなのだ。
> だから殺したら「悪」とされる存在なのか?
> 「感情、愛情」を持つものと、そのへんの「ダニ」。やっぱりなにも変わらない
> ではないか。
何も変わらないと考える人がいて、変わると考える人がいて、
それに対して「だからなんなのだ」とは思いません。
このテーマはとても重要で興味深いテーマです。
簡単に結論が出るテーマではないですよね。
> たとえ「自分を傷つけること」でさえ、自分の利益なのです。
> 指いっぽん動かすことでさえ、自分の利益のためです。
生物として快を求めるのは、上に書いたとおり。
> 「本当に望んだこと」をしないのは、それをしようとするとなにか不都合なこと
> がおきるからでしょう。もしくはできない情況にあるか。ただ自分の利益となる
> みちを選んでいるだけだ。
人間が自分の思ったとおりのことができないときにどうなるかは、
心理学の大きなテーマです。
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