2007.12.17
2007年12月14日午後7時すぎ、長崎県佐世保市内のスポーツクラブに銃を持った男が侵入。男は、迷彩服を着、目出し帽をかぶり、顔全体を覆うヘルメットをかぶっていた。男は散弾銃を乱射し2人を射殺、6人を負傷させた。翌日、男は市内のカトリック教会敷地内で自殺していたのが発見された。
この男性は37歳無職、このスポーツクラブの利用者だった。死亡したのは、クラブの水泳コーチの女性(26)と、容疑者男性の友人の男性(36)だった。犯行に使った銃は合法的に入手したものだった。
容疑者男性は、地元の中学、高校を卒業後、県外の大学に進学したが中退。就職したがまもなく退社、転職したが、その職場も退職し、この6〜7年は、無職だった。
になり、知人は「このころから少しおかしくなったように思う」。自宅の離れにこもりがちになるなど、人を寄せ付けない雰囲気になり、教会にも年に数えるほどしか姿を見せなくなった。
周囲からの評価として、おとなしい、いい子、好青年といった評価がある一方、異常な行動が見られたという証言もある。容疑者男性は、失業したころから自宅の離れにこもりがちになり、母親と共に通っていた教会にもほとんど姿を見せなくなるなど、周囲との交流が減っている。
近所の男性は、真夜中に「便所を貸してほしい」とやってきたことがあると証言している。そのほかにも、大音量で音楽をかけていた、目つきが怖かったと語る人もおり、このような男性が銃を持ち歩くことに不安を感じ、警察に相談した住民もいたほどだった。
殺害された男性とは、古くからの知り合いであり、最近も一緒に食事をとっていた。同じく殺害された女性に対しては、好意をもっていたのではないかという証言もある。
容疑者男性は、殺害した男性をスポーツクラブに呼び出して殺害しているが、他の数名にも誘いをかけていた。
殺人者のほとんどは、一人しか殺害しません。日本の場合は、99パーセントがそうです。。今回の事件のように、一度に大量の人を殺害しようとする殺人はきわめてまれであるといえるでしょう。
それだけに、大量殺人は注目をおつめるわけですが、大量殺人者は多くの場合、その場で逮捕されるか(あるいは直後にすぐそばで逮捕されるか)、自殺しています。彼らは、深い絶望感と孤独感のために、自分の人生を終わりにし、この社会(学校、会社、地域など)を終わりにしたいと感じているのです。
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バージニア工科大学銃乱射事件の犯罪心理学
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今回の事件の場合、容疑者が死亡しているために、動機は不明です。
考えられるものとしては、
○「人生に絶望し、自殺しようと思ったが、親しい人間を道ずれにしようとした。」
「拡大自殺」と呼ばれる殺人です。あるいは、一種の無理心中ともいえるでしょう。
○「女性への恋がかなわなかった」
被害者女性に対して一方的な恋愛感情をもったものの、かなわなかったために、一種の無理心中を図った。→恋愛心理学:男女関係、恋愛、結婚 の心理(あなたを幸せにする恋愛、一生を棒に振る恋愛)
○「相手への逆うらみ(逆恨み)」
自分の人生がうまくいかなかったために、順調な人生を歩んでいる友人に対して憤りを感じた。
あるいは
仲の良い友人だったと伝えられていますが、最近いざこざがあったとも伝えられています。他の級友関係が薄い中で、数少ない友人と上手くいかなかったとき、最後の社会との絆か切れたように感じ、絶望感とうらみ(逆恨み)の感情にかられ、殺害(と自殺)を考えたのかもしれません。
あるいは、
周囲がまったく気づいていなかった点で、うらみ(客観的に言えば逆恨み)の感情を持ったのかもしれません。今回呼び出そうとして知人のかには、ずっと連絡を取っていなかった人もいるそうですが、ずっと以前からの「うらみ」を彼の心の中で、増幅させていた可能性も否定できません。(かつて、学校でいじめられてきたと感じていた男性が、卒業後何年もたってから、同級生たちを呼び出し毒物によって殺害しようとした事件もありました。)
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恨みの心理(京都小学生殺害事件ならびに恨みによる殺人事件
○社会への怒り
おそらく逃亡する意思はなかったと思われるわけですが、彼はまるで衣装のように顔をヘルメットと目出し帽で隠し、迷彩服を着、堂々と銃を持って、スポーツクラブに入っています。あたかも「天誅」だといわんばかりに。
小説や映画(「八つ墓村)の題材にもなっている「津山30人殺し事件(「八つ墓村」:悪いのはあいつらだ!)」や「バージニア工科大学銃乱射事件」の犯人は、村人やアメリカ人(白人)大学生が悪人であると感じ、自分の行為は正義であると主張し、兵士のような(鬼のような)衣装や凶器を身に着けて、犯行に及んでいます。
校内で銃乱射事件を起こす少年は、次のようなタイプだといわれています。(今回の容疑者男性も同じようなタイプだったのでしょうか)
「頭も良く、一見ふつうの子だが、強い孤独感、疎外感を持ち、現状に不満を持つ。からかわれたり、いじめられたりすることに敏感で、世の中が不公平だと感じ怒りをもっている。落ち込むことでさらに判断力がゆがみ、人生は生きる価値がないと考え、自殺のかわりに他人を殺す。」
津山30人殺しの犯人は、次のような遺書を残しています。
「僕がこの書物を残すのは、自分が精神異常者ではなくて、前もって覚悟の死であることを世の人にみとめてもらいたいためである。〜復讐のために死するのである〜実際、弱いのにこりた。今度は強い人に生まれてこよう。〜実際僕は不幸な人生だった。今度は幸福に生まれてこよう。」
今回の容疑者男性も、「強く」なりたいために、銃を手に入れたのでしょうか。
今回の事件の場合、彼には銃を持たせるべきではなかったでしょう。近隣の多くの人々が彼の奇行に気づき、以前から銃を持つことに不安を感じていました。
現在の銃に関する法規制でも、適切に行われていれば、彼が銃を手にすることはなかったかもしれません。しかし、現実的には通報を受けた警察も、彼の精神的不調を理由に銃を取り上げることはできませんでした。
今回の場合は、確かに彼の心の健康について考慮し、銃を持たせないようにすることが必要だったと思います。しかし同時に、一般的には心の不調を理由にした取り締まりはきわめて慎重に行う必要があるでしょう。
ほとんどの場合、心に病を持つ人は人を傷つけたりしません。失業している人は言うまでもなく、自宅に引きこもっている状態の人も同様です。そのことを十分に理解したうえで、それでもまれにおこってしまうこの種の犯罪をどう予防していくかを考えなくてはならないでしょう。
銃の発砲事件も特別増加してるわけではありません。
平成13年の銃器発砲事件は215件、14年は158件、15年は139件、16年は104件、17年は76件でした(ただし、発砲事件のほとんどは暴力団がらみの事件ですが、一般市民の関わる事件が社会問題化しているという主張はあります。)
銃が犯罪に使われないような社会を作ることは、もちろん大賛成ですが(後述のように銃の存在が犯罪を誘発する)、しかし大きく報道された事件だけに流されないようにすることは必要なことだと思います。
銃規制は必要だと思います。精神的に不安定な人が問題を起こさないように周囲が考えることも必要です。しかし同時に、行き過ぎれば人権を侵害し、社会の自由を奪います。人権を尊重しようと思えば、社会の治安が危うくなり、治安を守ろうとすれば人権が侵される危険性が出てくるでしょう。どちらか一方だけの主張では、その目的を達成できないでしょう。
(「銃規制」の「規制」は、英語で言えばregulation(レギュレーション)ですが、心理学ではレギュレーションというと、「制御」という意味で使われることがあります。ただ押さえつけるのではなく、目的のためにどうコントロールしていくかが大切になるという意味で使われます。
そして、問題を抱えた人を単に危険視するだけであれば、その人本人や家族は、その問題を隠そうとするでしょう。人に相談することもできなくなります。必要な治療を受けることも遅れるでしょう。
犯罪心理学者の福島章先生は、次のように述べています。
「私たちは犯罪から学ばなくてはならないが、犯罪から学びすぎてはいけない」
今回の事件は、もちろん極めて凶悪な犯罪です。簡単に犯人に同情などできません。ただ、凶悪な事件は凶悪で乱暴な人間が起こすかといえば、必ずしもそうはいえません。
これまでの大量殺人事件の犯人たちは、むしろ普段はおとなしく、真面目で、知的です。その彼らが、絶望し、しだいに暴力に傾倒し、自分の命をかけてまで社会を正さなくてはならないといった非常にゆがんだ正義感を持った時、恐ろしい犯罪が起きています。
今回の事件の犯人も、もしももっと不真面目であったり、普段から乱暴なところがあるような人間であれば、こんな事件は起こさなかったかもしれません。あるいは、もっとずるい悪人であれば、こんなふうに自分の人生も家族も台無しにするような犯罪は起こさなかったでしょう。
心理学の研究によれば、欲求不満が高まるほど、攻撃的な行動が増えるといわれています。大切なことは、欲求不満を社会が容認する程度に小出しにすることでしょう。
さらに、欲求不満がたまるだけではなく、そこに攻撃への「手がかり」があることによって攻撃行動が起こるとも言われています(欲求不満手かがり仮説)。欲求不満がたまり、爆発し、怒りに我を忘れるような状況でも、素手で殴りかかることにはブレーキがかかりやすくなります。しかしその時、たまたま手元にあった灰皿やお皿を投げつけることはあるでしょう。2時間ドラマなら、たまたま目に付いた花瓶や包丁で相手を襲うといったシーンがよく出てくるでしょう。
今回の事件の場合、もしも彼も身近に銃がなければ、殺人事件は起きなかったかもしれません。
欲求不満を小出しにできないような人のそばに、武器があったことが、今回の事件の要因の一つといえるでしょう。
容疑者男性は、かつて教会に通っていました。宗教が戦争を引き起こすこともありますが、一般的に言えば、キリスト教思想は犯罪への抑止力になるでしょう。(「汝殺すなかれ」「汝盗むなかれ」)
彼は何を思い、最期に教会へ行き、自殺したのでしょうか。彼の遺書や日記などが出てこない限り、謎のままでしょう。最期に救いを求めたのかもしれません。
ここでは、キリスト教思想だけではなく、臨床社会心理学的に考えたいと思います。
彼は、人生がなかなか上手くいきませんでした。自分を責めることもあったでしょう(いわゆる罪意識)、恥をかくこともあったでしょう。
罪意識を持ち、自分を責め、絶望し、自殺したり、犯罪を犯したりする。これは、キリスト教が考える正しい罪意識ではないでしょう。人はみな罪をもったものであり、そして同時にキリストによって罪から解放され、神と人を愛する人生を送ろうというのが、キリスト教思想です。
臨床社会心理学的には、罪意識と恥意識について、次のように考えています。
罪意識は、行動に関心が向く。「自分はなんて悪いことをしたんだ」
恥意識は、自己に関心が向く。「自分はなんてだめな人間だ」
罪意識は、他人への共感を生み、関係改善への努力を生む。「あの人に悪いことをした。なんとか償わなければ」
恥意識は、他人への共感が生まれにくく、逃避、引きこもりを生む。「こんなことをしでかした自分はもうだめだ。隠れたい」
罪意識は、怒りと攻撃を鎮めやすい。「自分は悪いことをした。もう悪いことはやめ、良いことをしよう」
恥意識は、怒りと攻撃を生みやすく、ひとたび怒ると、怒りをコントロールできない。(「自分は恥をかいた。自分はダメ人間だ。どうしてお前は私をそんな感情にさせたんだ!」
キリスト教思想的に言っても、
「お前は悪い人間だ、だからダメなんだ、もう恥ずかしくて善良な人々の中では生きていけないぞ」と責め立てるのは、悪魔のささやきといえるのではないでしょうか。
神はむしろ、
「あなた確かに罪を犯した。しかし私はあなたを愛する。幸せに生きなさい」と語りかけているのではないでしょうか。
このように、その人にとって「重要な他者」から受容されていると感じることが、心の健康につながることは多くの心理学者が述べるところです。
容疑者男性が、
恥意識ではなく罪意識を持ち、
死に場所として教会を選ぶのではなく、生きる場所として教会を選んでくれていたららと、残念でなりません。
当サイトの内の関連ページ科学思想、哲学思想、宗教思想からから見た人間観
犠牲者の皆様のご冥福と、負傷された方々の一日も早いご快復をお祈りしています。
2008年9月緊急発行 『誰でもいいから殺したかった! 追い詰められた青少年の心理』 |
2008年8月発行 『人間関係がうまくいく図解嘘の正しい使い方:ホンネとタテマエを自在にあやつる!心理法則 』 |
2000年 『なぜ少年は犯罪に走ったのか』 |
2001年 『ふつうの家庭から生まれる犯罪者』 |
2000年 『なぜ少女は逃げなかったのか:続出する特異事件の心理学』 |
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「誰でもいいから殺したかった青年は、誰でもいいから愛してほしかったのかもしれない。」 ☆愛される親になるための処方箋 本書について(目次等) |
・ 『ブクログ』書評「〜この逆説的かつ現実的な取り上げ方が非常に面白い。」 ・追い詰めない叱り方。上手な愛の伝え方 本書について(目次等) |
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