心理学総合案内・こころの散歩道

少年犯罪 善悪の判断

From: "A"

To: <usui@second.n-seiryo.ac.jp>

Subject: 神戸小学生殺害事件

Date: Fri, 7 Nov 1997 17:52:28 +0900

以下の内容はプライバシーを侵さない範囲内で自由に公開してかまいません.

神戸小学生殺害事件について

この事件の犯人は15歳であることが判明しました.このことに我々は驚きを隠すことができません.そしてこの事件は数ある少年犯罪を代表する事件でしょう.そこで,多くの少年犯罪についていえる問題:

”犯人に善悪判断能力はあったか?”

が生じてきます.今のところこの問題に答えることは難しいと私は考えます.しかし,たとえこの問題に否定的に答えることができたとしても,

”なぜ,少年犯罪が増加しているのか?”

”なぜ,少年たちの善悪判断能力が低下しているのか?”

といったより一般的な問題についての完全な解答は非常に難しいと考えられます.それに少年たちだけでなく,大人たちもまた,モラルが低下しているように考えられます.

 そこで,少年たちのモラルが低下したため,その少年たちが大人になると,大人たちのモラルが低下したことになり,結果その影響を受けて少年たちのモラルはさらに低下していくという説明があります.恐らく将来この傾向は増していくでしょう.

 しかし,現在において,もっとほかに説明の可能性はないのでしょうか?大人たちのモラルは,まだそれほど低下していないのに,社会が多様化して,高度経済成長期以前の日本社会のモラルでは対応しきれなくなっている,ということは考えられないでしょうか?

  そこで,欧米諸国の個人主義が高度成長から安定成長に転じたバブル社会以降になって,日本に導入されたという視点から見れば,それ以前の日本社会のモラルが個人主義に対応しきれなかったという結論が出ます.

 特に少年犯罪に関していえば,欧米の少年犯罪は自由に付随する責任や競争の重圧に負うところが大きいのに対して,日本の少年犯罪はそれらと高度経済成長期以前にあった甘えや調和,言うなれば”もたれ合い”の精神とが組み合わさって生じたという特色を持っています.ですから欧米の方が日本より犯罪が多いと言っても,実質は日本の犯罪の方が深刻だと言えます.

 さて,以上の準備を元にモラル,善悪判断能力について議論を進めましょう.

 まず第一に,私は人間は一人一人違った存在である以上,多少の衝突は避けられないと考えています.そしてその衝突を必要以上に展開させないのがモラルであり,善悪判断能力であると考えます.だから私は議論においては可能な限り人を無意味に中傷せず,また自分の意見を遠慮なく言うことが重要だと考えています.

 したがって,神戸の事件の犯人に関していえば,おそらく彼は外圧への対抗の仕方が悪かったと考えられます.やはり,これからの社会では自分の意見をはっきり言うことが重要になってくるのでしょう.

 しかし,これではまだ当たり前の結論に過ぎません.
そもそも,倫理の根本はどこにあるのでしょうか?

それを考える前に少し脱線した話を1つ,その昔,ユークリッドという数学者がいました.彼は幾何学を公理(公準)の組み合わせから導けると考え,いくつかの公準を作りました.

 その中の”ユークリッドの第5公準”,これは”ある平行線mと,その線上にない1点Pをとると,その1点Pを通り平行線mに平行な直線はただ1本だけひける”というものです.これは一見当たり前のように見えますが,19世紀にこれはユークリッドの他の公準からは証明不可能であることが知られました.

さらに20世紀にゲーデルという数学者が”不完全性定理”という定理を発見しました. この定理は数学の体系は決して完全ではない,つまりどんな数学の体系も必ずその中に証明不可能な命題(もちろんその体系の中で意味を持つ)を含んでいるというものです.

 この2つの事柄の意味することは簡単です.そもそも善悪の判断というものは存在しないのです.倫理の根本は実は全く空虚な存在だということです.
 ですから, 結局人間というのは救いようのない存在だということになります.もう一度今までの考察をまとめれば,現代の社会はあまりに複雑化してしまっているため,もはや人間がある物事の善悪その他の真実を見ることはできなくなってしまっている,ということになります.

匿名希望(仮名A)より


筆者からの返信

A 様

メールありがとうございました。
返信が大変遅くなり、失礼いたしました。
貴重なご意見をお寄せ下さり、感謝しております。
熱心なメールをいただくと、ページ更新の励みになります。

At 5:52 PM +0900 97.11.7, Awrote:

> ”犯人に善悪判断能力はあったか?”

 法的な意味で言えば、
全く善悪の判断がつかない心神喪失状態ではなかったでしょう。自分の行為は、法に反する行為だ、見つかれば逮捕されるということを判断する能力はあったでしょう。

 しかし、もっと普通の意味で言えば、
これが悪いことだという「実感」はなかったでしょう。だから、犯行時も、逮捕後も、良心の呵責や反省の言葉がなかったのだと思います。

> ”なぜ,少年犯罪が増加しているのか?”

(この部分は、ご意見の本質ではないとは思いますが、)

少年犯罪が増加しいるのかどうかは、統計資料のどこを見て、どこと比較するかによって、判断が変わってきます。

> ”なぜ,少年たちの善悪判断能力が低下しているのか?”

たしかに、モラルの低下と思われるようなことは、
いろいろな場面で見られると思います。

> そこで,欧米諸国の個人主義が高度成長から安定成長に転じたバブル社会以降に
> なって,日本に導入されたという視点から見れば,それ以前の日本社会のモラルが個
> 人主義に対応しきれなかったという結論が出ます.

(「個人主義」という「考え方」が入ってきたのはもっとずっと以前だと思いますが、そんなことはさておき、)

 集団主義的に行動して、それなりに上手くいっていた日本社会に、ゆがんだ形の個人主が広がり、様々な問題が生じたということでしたら、理解できます。

個人主義、集団主義の観点からいえば、私は次のように考えます。

 個人よりも集団を重んじる集団主義によって、日本社会の秩序は保たれてきた。しかし、そこに個人主義が広まり、「自分の好きなことをして何が悪い!」ということになり、結果的に社会が乱れてきた。

 本来の西欧個人主義は、人間一人一人が、神(またはそれに基ずく法やルール)の前に立つ自律的人間だととらえます。個人は自由に行動して良いが、当然、神または法の前になすべき行動基準があり、個人の行動は個人で責任をとらなくてはならないのです。それが、自律的人間です。

 ところが、個人主義を勘違いしてしまって、「神」を抜きにして、単に集団よりも個人(自分)を優先させることとした、ゆがんだ個人主義を持つ人々が増えてしまったのでしょう。なすべき行動基準もなく、個人で責任をとる気もありません。

> 特に少年犯罪に関していえば,欧米の少年犯罪は自由に付随する責任や競争の重圧
> に負うところが大きいのに対して,日本の少年犯罪はそれらと高度経済成長期以前に
> あった甘えや調和,言うなれば”もたれ合い”の精神とが組み合わさって生じたとい
> う特色を持っています.ですから欧米の方が日本より犯罪が多いと言っても,実質は
> 日本の犯罪の方が深刻だと言えます.

 日本の犯罪も、以前は非常に「攻撃心」の高いタイプが多かったのに対し、近年は、意志が弱い、依存的、受動的、自我の発達が未熟といったタイプが、増えているようです。それは、おっしゃるように、ゆがんだ形の「甘えや”もたれ合い”」とも言えるでしょう。

(「だから、日本の方が......」というのは、私には良くわかりません。)

> さて,以上の準備を元にモラル,善悪判断能力について議論を進めましょう.
>
> まず第一に,私は人間は一人一人違った存在である以上,多少の衝突は避けられな
> いと考えています.そしてその衝突を必要以上に展開させないのがモラルであり,善
> 悪判断能力であると考えます.だから私は議論においては可能な限り人を無意味に中
> 傷せず,また自分の意見を遠慮なく言うことが重要だと考えています.

同感です。(私は、「モラル」と言うよりも「愛」と言いたいですが。)
自分の意見を遠慮なく述べる、相手の意見をきちんと聞く、これが民主主義の基本だと思います。

(私たちの日本社会では、どうもこれが上手く行かず、人格を傷つけ合うケンカになってしまうことが多いようです。)

> この2つの事柄の意味することは簡単です.そもそも善悪の判断というものは存在
> しないのです.倫理の根本は実は全く空虚な存在だということです.

 すいません。数学の理論はほとんどわかりません。ただ、ある理論(モデル)のなかで、最も基本的なものは、その理論の中では証明できず、自明のものとして受け入れるしかない、というのは、昔習った記憶があります。

 それを、人間社会にも当てはめれば、たとえば、「なぜ、人を殺してはいけないのか」は、証明不可能ということになります。法的には、ただ、殺人を犯した者は、〜の刑に処するとあるだけです。そこで、証明不可能なので、法律以前に「自然法」というものがあり、人権とか、命の尊重とか、平等だとかは、最初から定められているとします。

 あるいは、そのモデルの中では証明不可能なのですから、モデルの外からの観点が必要になります。そこで、人間社会の外(上)に絶対者(「神」)がいて、その絶対者が禁じることは、悪とします。

(こういうのは倫理学の問題でしょうね。すいません、倫理学の知識もほとんどありません。)

 以前、こんな話を読んだことがあります。

 売春をしていた少女が補導されて、刑事さんに反論します。「どうして、売春が悪いのよ!」
それに対して、刑事さんは、「悪いものは、悪いんだ!!」と答えます。

 この話を紹介した人が嘆いて書いていました。どうして、いつのころからか、何にでも説明を求めるようになったのだろうと。悪いものは悪い。売春なんかしていたら、君は幸せになれないと。

> ですから, 結局人間というのは救いようのない存在だということになります.もう
> 一度今までの考察をまとめれば,現代の社会はあまりに複雑化してしまっているた
> め,もはや人間がある物事の善悪その他の真実を見ることはできなくなってしまって
> いる,ということになります.

 よくいわれることですが、戦後になって教育勅語を捨てた日本の教育は、次の価値基準を持たないままできてしまいました。せいぜい、決まりを守れとか、人に迷惑をかけるな、といった程度です。

 これでは、売春禁止法や淫行条例に引っかからないようにすれば、金銭で身体を売るのはなぜ悪いのか、と言う意見に上手く反論できません。ましてや心の中の問題などには、何も言えません。

 多くの社会で、善悪の基準は、宗教か、あるいは神格化された思想家によっています。日本では、戦争中に「国家神道」という宗教にひどい目にあった体験から、「宗教」に対して懐疑的になってしまったようです。(最近のオウム事件や統一教会問題がそれに拍車をかけたようです。)

 それでも、集団主義的な考えが主流のころは、人様に迷惑をかけないとか、恥ずかしいことはしないと言った行動基準が多くの人あり、それなりに上手く機能していたように思います。そして現在でも、普通の日本人の道徳観はそんなに低くはないと思います。

 しかしそれでも、今やはり新しい行動基準は必要なのではないかと思います。こんなことを言うと、復古主義とか、「修身」を復活するのかとか、宗教を押しつけるのかと批判されるかもしれません。もちろん、そんなつもりはありません。

 それでも、行動基準が不明瞭なままで、どうしたらよいのでしょうか。私個人としては、宗教教育が大切だと思っています。

教育基本法の9条の2
「国及び地方公共団体が設置する学校は、 特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」ばかりが重視され、その前の

「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。」が軽視されすぎてきたように思えます。

小田晋も、殺人を抑止する最大の力は宗教だと述べています。

 心理学者としては、「どうすれば効果的か」を考える教育を進めたいと思います。あなたが、本当に幸福になるためには、どうしたらよいのかを考える教育です。

 自分の本当の心を押しつぶして、人を傷つけたり、自分を傷つけるようなことをしても、幸福にはならない。そして一時的な感情人間関係を壊したりしないためには、どうしたらよいか、などです。「論理療法」や「EQ」の考えに基づく方法などもあるでしょう。

 たしかに、現代社会はあまりにも複雑化してしまっていると思います。同感です。それでも、私はすこしでも前向きに見ていきたいと思ってるのです。

どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。
このメールのやりとりをAさんからのメールとして「読者の広場」で公開したいと思います。

* * * * * *

補足

・比較的、堅い内容のご意見でしたので、返信も少しかたくなました。

・返信では、話の都合上、西欧は個人主義、日本は集団主義としましたが、実はそんな単純ではありません。しかし、話が複雑になりますし、それが本質的なテーマでもないので、細かい説明は省略しました。


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